学校ニュース

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2年生の日常

2学期がはじまり数日経ちました。

子どもたちは夏休みについて、

 

「交流しながらビンゴを目指したり、新しい教科書やドリルに興味をもっていたり

生活に勉強に、とても意欲的に取り組んでいました。

また、今週の国語では「言葉で道案内」の学習をしました。

相手に伝わるためにはどんなことをどのように話すとよいのか、考えました。

やりとりの中で、案内するときには

・曲がる場所や方角、回数

・目印になるもの

などをはっきりと伝えることが大切だと気付いていました。

写真で振りかえる昔の西方小学校 NO.20

 昭和19年から20年にかけて、西方にもたくさんの学童疎開の子どもが牛込区(現在の新宿区)立余丁町国民学校から来ました。実相寺・福正寺・甘露寺に60人以上宿泊していました。昼間は西方村国民学校で西方の児童と共に学習(集団訓練・勤労奉仕)していました。当時の6年児童数は卒業生名簿から調べると、昭和20年度で約170名です。そこに学童疎開の児童が加わると1学年で200人程度いたと考えられます。

 昭和21年度までの名簿が納められています。(校長室)

 実相寺の疎開児童とお手伝いの集合写真 西方町史から転載

 

 

 

写真で振りかえる昔の西方小学校 NO.19

 西方小学校は昭和16年に西方村国民学校と名称を変えました。戦時皇国民の錬成ということが目的でしたが、義務教育が8年に延びました。栃木県の文書館の資料から国民学校の始まりを紹介します。

     

 最初の写真は国民学校に名称を変更せよという栃木県からの通達です。この頃は教育委員会制度はなかったので栃木県学務部から出されています。2枚目はこの通達を受けて、西方村役場が名称変更を願い出たものです。(昭和16年4月)

   

 西方村国民学校の名称が実際に使われていたことが分かります。この文書は西方村青年団の体育運動会を昭和17年9月27日に西方村国民学校の校庭で行う旨が書かれた通知です。昭和17年の段階では体育運動会が開催できていたことが分かります。この次№20では国民学校の時代の学童疎開について紹介する予定です。

 

 

2学期が始まりました

子どもたちの元気な声が、学校に戻ってきました。

いよいよ今日から2学期が始まります。

2学期は各学年とも、たくさんの行事があります。目標をもち、計画的に生活を送ってもらいたいと思います。

始業式では、4名の児童が目標をしっかりと発表しました。

また、校長先生から防災の日に関連し、日頃から備えることの大切さについてお話がありました。

  

写真で振りかえる西方小学校 NO.18

 今回のテーマも前号と同じ西方小学校にある古いものです。今回は駐車場にある教材倉庫に行ってみました。教材倉庫の片付けが進み思ったほど古いものは発見されませんでした。数少ない古い考えられるものを2点紹介します。

  

 羽釜と石臼です。どちらも年代がわかりません。羽釜は西方小学校の刻印がありますが學になっていました。石臼の方は手がかりがありません。せっかく残された古いものなので、3年生の社会科で、 

「生活の道具などの時期による違いに着目して、市や人々の生活の様子を捉え、それらの変化を考え、表現すること。」の学習の時に教室に運んで使用したいと思います。