学校ニュース

2022年9月の記事一覧

写真で振りかえる西方小学校 NO.23

 西方小学校の現在の校舎が落成された昭和52年当時の冊子が見つかりました。この冊子を写真で紹介いたします。校舎平面図から1階に4普通教室、2階に8普通教室がありました。図書室は3階の現在は会議室になっている場所にありました。その近くにはトイレが描かれていますが、現在は存在しないので設計変更になったと思われます。平成23年に共同調理場ができるまで、学校給食は西方町3校でそれぞれ調理して提供されていたので、西方小学校だけの給食をつくる給食室がありました。

  

  

 給食をリフトで2階にあげる部屋(表示は給食室)  共同調理場への連絡口です(1階東側)

 

道徳の研修を行いました

 5校時に4年生で道徳の授業を行いました。

 白鷗大学の先生を授業者に迎え、「雨のバスていりゅう所で」について皆で考えました。

 いつもとは違う先生の授業でしたが、子どもたちはとても真剣に考え、自分の言葉で意見を発表していました。

 身近な題材をもとに考えることで、自分事として授業に取り組む姿勢が見られました。

 また、今回は真名子小学校の先生方4名も参加してくださいました。

  

 

 授業後には、研究会を行いました。

 参観した先生方が3つの班に分かれ、授業の進め方、子どもとの関わり方、資料の読み込みと発問など、多面的に協議することができました。

 

 

 先生方が日頃の道徳の授業をする際に悩んでいることなど講師の先生に積極的に質問するなど、とても有意義な時間となりました。

 今後の授業に大いに参考になる示唆を与えていただくことができました。

国体に向けて

今月の環境委員会活動では、来月の国民体育大会(国体)に向けて

マリーゴールド・ペチュニアを植えました。

 

ガーデンピックへのメッセージを書き、

花いっぱいの国体となるよう、プランターでの栽培をしていきます。

3年校外学習~警察署・山車会館・つぶらぶどう園~

 本日、3年生で校外学習に行きました。

 

 栃木警察署では、講話を聞いて気になったことを質問したり、実際に携帯している物に触らせていただいたりしました。

 初めて見るものや知ることが多く、子どもたちも興味津々で、メモを取っている姿が見られました!

 

  

 

 山車会館では、案内をしていただきながら山車の歴史を辿り、実際の山車を前にして、大きさや迫力に圧倒されている様子でした。

  

 

 つぶらぶどう園では、ぶどう園の方から大平ぶどう団地の歴史やぶどうの育ち方を聞いて、積極的に質問をしていました!ぶどう狩りの際、楽しそうにぶどうを選んでいた子どもたちの笑顔が印象に残っています。

 

 

 栃木市の中心部を歩きながら蔵を間近で見たり、ぶどう狩りに行く道で見た大平ぶどう団地の様子を観察したり、子どもたちにとって充実した校外学習になったと思います。

写真で振りかえる昔の西方小学校 NO.22

  今回も前号に引き続いて、明治17年建築の旧校舎の特集です。旧校舎の図面が見つかりました。立面図・1階平面図・2回平面図を「西方小学校調査報告書」より転載していきます。

     

  2階に7普通教室。1階は特別教室・校長室・教員室

 

写真で振りかえる昔の西方小学校 NO.21

   今回からは西方小学校150年の歴史の中で、約90年以上学びの舎として活躍した旧校舎についてご紹介いたします。旧校舎は明治17年に新築され、昭和51年に役目を終えました。この旧校舎のことがわかる資料が「西方小学校調査報告書」(栃木県建築士会青年部会・昭和53年7月)です。この冊子から何枚か写真を転載して旧校舎の様子を紹介いたします。今回は旧校舎の建築様式です。

    

   

  いたるところに西洋建築の要素が取り入れられていました。

 

算数を楽しもう

学活での活動後、残りの時間で、

算数に関する問題をいくつか出題しました。

できそうで意外と難しい問題で四苦八苦しつつも

時には友達と協力しながら答えまでたどり着くことができました。

   

これからも最後まであきらめずに取り組む姿勢を大切にしていきたいと思います。

2年生の日常

2学期がはじまり数日経ちました。

子どもたちは夏休みについて、

 

「交流しながらビンゴを目指したり、新しい教科書やドリルに興味をもっていたり

生活に勉強に、とても意欲的に取り組んでいました。

また、今週の国語では「言葉で道案内」の学習をしました。

相手に伝わるためにはどんなことをどのように話すとよいのか、考えました。

やりとりの中で、案内するときには

・曲がる場所や方角、回数

・目印になるもの

などをはっきりと伝えることが大切だと気付いていました。

写真で振りかえる昔の西方小学校 NO.20

 昭和19年から20年にかけて、西方にもたくさんの学童疎開の子どもが牛込区(現在の新宿区)立余丁町国民学校から来ました。実相寺・福正寺・甘露寺に60人以上宿泊していました。昼間は西方村国民学校で西方の児童と共に学習(集団訓練・勤労奉仕)していました。当時の6年児童数は卒業生名簿から調べると、昭和20年度で約170名です。そこに学童疎開の児童が加わると1学年で200人程度いたと考えられます。

 昭和21年度までの名簿が納められています。(校長室)

 実相寺の疎開児童とお手伝いの集合写真 西方町史から転載

 

 

 

写真で振りかえる昔の西方小学校 NO.19

 西方小学校は昭和16年に西方村国民学校と名称を変えました。戦時皇国民の錬成ということが目的でしたが、義務教育が8年に延びました。栃木県の文書館の資料から国民学校の始まりを紹介します。

     

 最初の写真は国民学校に名称を変更せよという栃木県からの通達です。この頃は教育委員会制度はなかったので栃木県学務部から出されています。2枚目はこの通達を受けて、西方村役場が名称変更を願い出たものです。(昭和16年4月)

   

 西方村国民学校の名称が実際に使われていたことが分かります。この文書は西方村青年団の体育運動会を昭和17年9月27日に西方村国民学校の校庭で行う旨が書かれた通知です。昭和17年の段階では体育運動会が開催できていたことが分かります。この次№20では国民学校の時代の学童疎開について紹介する予定です。